■CONCEPT

上方町家の建物への考え方、目指すものをご紹介致します。

上方町家とは

町屋のはじまり

町家の名は平安時代の書物に登場しますが、その頃は粗末な小屋のようなものだったよ うです。平安の新都造営の工事が始まると、平城の旧都から、あるいは近隣の集落か ら人々が集まってきて店舗兼用の住居として建てたのが始まりです。

京町家が鰻の寝床と表されるのは、間口が狭く奥行の深い短冊状の敷地に由来します が、それは秀吉が間口に合わせて税を取るように決めたからと言われますが果たして そうでしょうか?

平安の都市計画は条里制です。「京の町は一町三六丈に道巾四丈を加えて四〇丈」と 言いますから、一辺約132mの正方形の街区を東西に分かち、町衆はその一画を更 に二分して背中合わせに居住しました。

それでも奥行きは30m近くになり、鰻の寝床になりやすい条件を備えていました。 それに商店街としては間口の狭い店が密集している方が、買い物がしやすく都会向き だったと言えます。

通り庭と呼ばれる町家を特長づける土間は、商品の搬入に便利で、風通しが良く、太 古の湖底の風土から来る夏の耐え難い蒸し暑さを和らげるためにも不可欠の構造だっ たのです。

火事と喧嘩は江戸の花と言いますが、京都もまた何度も大火事に見舞われました。中 でも天明の大火は御所や二条城まで焼き尽くしたので、京都には天明8年より古い建 物は無いと言われます。従って京の町家はそれほど大昔ではなく、多くは明治大正の 建物です。

粗末な小屋から始まった町家も千年の歴史を経て、公家屋敷や茶室など各時代の建築 の影響を受けながら洗練され、次第に様式が確立されて来たようです。

町家に学ぶ新しい家造り

町家という呼び名は、早くも平安末期の書物に登場します。商業活動を行う町衆が、職住一体の住居を構えるようになったのが町家の原型と言われています。鰻の寝床と言われる短冊状の敷地に、棟割り長屋のように家が並び、ムクリのついた切り妻の瓦屋根が、少し隣家にかぶさってスキ間の雨を防ぐ構造。雨宿りができる深い軒に紅殻格子、奥庭まで続く長い土間、それに平行する高床のおいえ。黒々とした丸太梁、漆喰の白い壁…。

町家は実に興味深い存在で、多くの人がその喪失を惜しんでいますが、いかんせん木造である限りやがて寿命は尽きます。しかし、町家をそのままの姿で新たに建てるのは、行政上の制限によってほとんど不可能になりました。また、マイナーチェンジによって現行法規に合わせようとしても、町家の様式は完成され過ぎていて非常に難しい。  では町家から何を学ぶのか?

それは、夏の蒸し暑い気候のもとで涼やかに暮らすパッシブ な工夫や、生活に小さな自然を巧みに取り入れる坪庭の技術、地域の経済や環境保全に貢献する建築の在り方、部屋使いの融通性、装飾の少ない端正なたたずまい、町並みの美しさ等々。私たちが町家から学ぼうとしているのはこのような事です。